いま、中学受験の世界で大きな課題となっているのが、「著作権」問題だそうです。ことに、国語の入試問題に使用される長文の著作権をどう保護していくか、ということのようです。
つまり、入学試験での利用は著作権法も許容する「教育活動」として、無償かつ許諾なしでの使用が認められるのですが、入試が終わったあと、各私立学校などが「これが本年度の入試問題です」ということで、次年度募集のツールとして自校の入試問題を配付することは、「教育活動」ではなく、募集活動なので著作権の侵害になってしまうのだといいます。
児童・生徒に法の遵守を教えていくべき教育機関が法規違反をするわけにはいきませんから、最近では各校とも、この問題に非常に神経質に対応しているようです。著作権者の団体等と話し合い、一定の方式をもって著作権者に著作物の使用料を支払うような仕組みができているとも聞きました。
2年前だったでしょうか、武蔵中の国語入試問題が学校から発表されたとき、驚きました。著作権法を厳格に守って、長文問題の引用部分は一切カット。あるのは、学校が作成した「問1 傍線部①における主人公の心情を自分のことばで述べなさい」という部分だけでした。いかにも武蔵らしい著作権問題への意思表示だと塾の先生方の間では話題になったそうです。法律は遵守しなければなりません。しかし、あまりに狭隘な姿勢を貫きすぎると、実情にそぐわない結果にもなりかねません。
まあ、そういう難しいことは置いておくとして、この著作権問題は、私立学校だけではなく、一般の進学塾や参考書・問題集などについても該当することです。いや、むしろ塾などの方が営利活動を前提にしているだけに、著作権者からしたら侵害の程度が著しいとうつるかもしれません。
となると、わたくしたちの勉強会においても、たとえ無料で自発的にやっているからといって、安易にコピーしたりすると、他者の著作権を不当に侵害することになるのでしょうか。
友人の弁護士に茶飲み話の際に尋ねてみると、「個人的使用は例外規定にあたるのだけれども、6人が集って、そこでの教材ということになると、おそらく著作権の侵害になるね、厳密には。それが、6人の親がいて、一人ひとりで、自分の子の分だけコピー機を操作してコピーしたというなら、個人的使用であったといえるだろうけれども、だれかがまとめて6枚コピーしたら、それは無理だということになってしまう」
「どうして、そんな誰がどうコピーしたかに、こだわるんだい。結果的には同じなのに」
「それは、学校での事例なんだけど、公教育では他者の著作物の複製を使用することは著作権法で許容されている。でも、それは授業担当者が自らの教場において学習者分を自ら複製する場合にかぎられる。つまり、学校で1組と2組があって、国語の副教材にある文学作品を2クラス共通で使おうとしたとき、1組の先生が2組の分もいっしょにコピーすることはできないわけだ」
「えらく、現実離れした解釈だね。それじゃ、教育活動には使えるといったって形だけじゃないか」
「そうなんだ。もし、図書館司書の人が、1組と2組の先生にかわって図書館の本を2クラス分コピーしたとすると、それはマズイということになる。司書は、直接の授業担当者ではないから」
なんだか、小難しい話になってしまいましたが、もしかしたら著作権法の規定そのものが、これだけ複写機が普及した時代を想定していなかった時期の法制化だったことも関わっているかもしれません。
著作権者の権利は守っていくべきですが、教育や時代を担う子どもたちの教材利用のためには、ある程度の幅をもって利用できる余地を考えていくのも、大人の責務ではないかと思います。教育基本法の改正に熱心になる前に、著作権法における教育利用の活用余地を広げる法改正こそを真剣に論議しなければならないのではないでしょうか。著作権者である著作家さんたちも、教育の場で自作が採用されなくなることは、長い目でみると将来の読者を失うことにもつながり、大切な言語文化の伝承を自らの手で抹殺することにもなりかねないのではないかと思います。
と、難しいことを書いてしまいましたが、要するに、今回のような規模で他者の著作物を利用させてもらおうとする場合、その対価を支払いたくても方法がありませんし、算出の手だてもありません。
そこで、私たちの勉強会では原則としてコピーは使用せずに、見栄えはしなくとも、自作教材を基本において進めていくことにしました。国語の教材の場合には、書籍そのものを各人の分をこうにゅうしたり、プリントでは著作権のきれた古い作品を選ぶことになるでしょう。
2 件のコメント:
著作が中学受験で使われることは著作の教育的価値が認められていることなので、著者や出版社も寛容になるべきだと感じますが、「使って欲しくない」と公言する人もいるようですね。
著作権の問題で塾用テキストなんかも不本意な改題を強いられることも少なくないように感じます。どこまで認めるかということも難しいですが、真剣に取り組まないと大げさでなく日本全体の国語力低下につながるような気がしますね。
>久義さんへ
中学受験の教育的価値については、一般的には、まだまだ認識されていない嫌いもありますね。
中学受験教材で初めて作品に接して、それが契機となって、その作家の作品を読むようになったという人も少なくないのですが、そうしたことも、もっと著作者の皆さんにも伝えていく必要があるのでしょうね。
ブログへの訪問、ありがとうございます。
また、来てください。
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