私たちの勉強会では、たとえ勉強を教えるのであっても、仲間の親を「先生」とは呼ばないでおくことを申し合わせました。
どちらでもいい些細なことですが、大事なことだと考えます。
勉強会は、塾ではありません。自ら進んでやってきて、仲間と勉強する機会です。先生に頼って教えてもらうという基本姿勢に立ってほしくないので、教えるお父さん、お母さんを「先生」とは呼んでほしくないのです。
「アケちゃんのお父さん」であり、「オジサン」と呼んでもらうようにしました。
そして、これは子どもたちが今後、塾に帰ったときにも関係すると思います。「勉強会」では、なにも制約がありませんから、学習理解に役立つと思えば、なんでも教えてしまいますし、知識や技法伝達の面では、一切遠慮はしないで進めることができます。
たとえば、高校段階で学習する「メネラウスの定理」も、かみくだいて小学生に教えることで、部分的に辺比の活用が可能になります。(小学生には、メネラウスなんていいません。一般にこれは、「キツネの魔法」と呼称され、理屈は何もわからなくても、あっさり子どもたちはマスターしてしまいます。図形を学習するときに、ちょっとだけ教えようと思っています)
ところが、そうした種々の知識や解法を身につけた子どもたちが塾に帰って、その手法を使ったとしたら教えておられる塾の先生は、どんな反応をなさるでしょうか。考えられるのは、「どこで、そのやり方を習ったの? 誰から教わったの?」という問いかけがあることでしょう。子どもは正直ですから、「勉強会で○○先生から教わった」と答えるでしょう。
その場合、プライドの高い塾の先生としては、きっと不愉快な印象をお持ちになられないとも限りません。先生ショーバイの性というか、どうしても、そういう反応のが無意識のうちに出てしまいがちです。
それが、「アケちゃんのお父さんに教わった」「変なダジャレ好きのオジサンが教えてくれた」という答えであったら、幾分かは塾講師の気持ちは違うはずです。「この子の周囲に、ちょっと中学受験を知っている大人がいるんだな…」程度の認識で終わるはずです。
この違いは大きいと思います。どうしても、現今のような進学塾システムの中では、塾講師が受験生を抱え込むようなかたちになりがちで、実際は抱えられていないにもかかわらず、他で何らかの指導を受けているのを嫌がる無言の雰囲気があるからです。
ちょっと、心配しすぎかもしれませんが、アケ・パパは、こう考えて、「先生」と呼ばないように子どもたちに、語りかけています。
もちろん、アケちゃんは、家でも勉強会でも「お父さん」で通しています。塾で聞かれたら、「お父さんに教わった」と答えるでしょうが…。
「先生」でないことの最大のメリットは、気楽に間違うことができることもあげられます。「先生じゃないんだから、いつ間違うかわからないぞ。計算ミスなんか、当たり前、しっかり確認しておけよ」と言い放つことができる方が、じつはメリットが大きかったりもして…。
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